資料等
追悼 モーリス・アンドレ
〜巨匠モーリス・アンドレとの出会い(思い出)〜
私が芸大の学生の頃であった。アンドレのレコードが次から次へと店頭に並び、それを聴いて、一体どうすればこのような演奏ができるのか、何としてもフランスへ行ってアンドレに習いたいと思った。フランス政府の給費留学制度を知り試験を受けてみた。実技は合格したが語学で失敗、追試験までの2ヶ月間に語学の個人レッスンを受け何とか合格できた。
初めてアンドレに会ったのはセルマー社(楽器メーカー)のスタジオであった。濃紺のジャージーとスニーカーの軽装で現れたアンドレに会えて感激したものだ。わずかなレッスン時間であったが、適切なアドヴァイスを受けることができた。入学試験の日、アンドレは受験生達に譜面台の調整や水の入ったコップをサーヴィスして最高のコンディションで演奏できるよう配慮してくれた。
アンドレはヨーロッパ各地の演奏旅行の途中、気に入った自然の中で車を止め、トランペットの練習をした。美しい風景にとけ込み「うさぎや鳥達と一緒になって練習するのが楽しい」と言う。生徒たちの指導は常に自然の風景を想像させたり、楽譜に書かれている音符から感じる音楽の流れを基にして小物語を連想させ、話すように演奏ように演奏しなさいと言ったものだ。例えばオペラのアリアのように、トランペットの発音も「声と同じだ」と考えるアンドレの演奏は、常に声の自然さに近づこうとする努力をしているらしい。体内から音が出ているかのように暖かく自然なアンドレの音を、スローモーションで聞き、顕微鏡で拡大して見ることができれば、と思ったことがあった。
卒業試験が間近に迫るとアンドレの声もオクターヴ高くなり、クラスには緊張感が漂い強いエネルギーがみなぎる。生徒達も身を引き締めて卒業試験に臨むのだ。卒業試験は生徒達の試験でもあるが、一般聴衆を含めて厳しい判断がくだされる。先生は過去どのように生徒を指導したのかをも問われる瞬間である。生徒も先生も長いヴァカンス前は真剣に取り組むのである。
アンドレの初来日は、大阪のデパート火災で数十名の不幸があった1971年だと記憶している。フランスの新聞はこの様子を大きく報じた。「私はもうすぐ日本へ行くが、フランスの日曜は家族揃って食事をするのに、なぜ日本は日曜に人々がデパートへ行くのか」とアンドレに尋ねられた。返答に困ってしまったが帰国後のレッスンでは「日本には素晴らしい音楽会場があって、聴衆は非常に好意的だった」と満足した様子であった。日本からのお土産はレストランの楊枝ようじで、当時はまだ珍しく、歯の健康に興味をもつトランペット吹きのために楊枝の使い方の説明も忘れなかった。
試験も終わった学期末になると、アンドレは生徒達全員を彼の家に招待した。フルコースの食事をご馳走になった後、室内温水プールでレッスンを受ける。プールはホールの温度に設定され、教会のような残響であった。よく響く場所でレッスンを受ければ、いつもより上手く聞こえるだろうと思っていたのは間違いで発音に失敗すれば、失敗音も残響として響き、プール全体がとても不愉快な音になった。残響の多い場所こそ細心の注意を払って発音しなければならないのも理解できた。
M.アンドレ(Jean,Maurice ANDRメjは1933年5月21日フランス南部の炭坑の町アレス(Al峻)で生まれた。父と共に鉱山の地下に潜り石炭採取の仕事をしながら、町の吹奏楽団でコルネットを吹いていた。
1951年パリ国立高等音楽院のコルネット科に入学し、1952年6月20日の卒業試験では特別名誉賞を受賞したのは若干19歳であった。
アンドレの卒業試験課題曲は、Marcel Bitsch(M.ビッチ)作曲Capriccioカプリチオで、試験会場はアンドレの演奏を聴く聴衆の長い列が続いたと伝えられている。同年10月再びトランペット科に入学し、翌年1953年6月22日の卒業試験でA.Desenclos(A.デサンクロー)作曲Incantation,Threne et Danse魔法、哀歌と踊りを演奏し、審査員全員一致の一等賞で卒業した。
1953年から1960年までパリ・ラムルー管弦楽団、1953年から1962年までパリ・オペラ・コミーク管弦楽団の首席奏者を務めたが、1955年ジュネーヴ、1963年ミュンヘンそれぞれの国際コンクールで優勝して以来ソリストとしての活動が始まった。
昨年1月パリでアンドレと息子ニコラ、娘ベアトリス親子共演の演奏を聴いた。バロック音楽中心のプログラムは満員の盛況であった。演奏会が終った後、近くのレストランで”恩師アンドレを囲む会”があり弟子達が集まった。このような会は滅多に行われないらしく、アンドレが50歳の誕生日パーティー以来なんと13年振りのことであった。
翌2月にはアンドレが表彰されることになり、表彰式に弟子達がトランペットを持って祝う事になった。会場(パレ・デ・コングレ)には懐かしい顔ぶれが揃い、この模様はテレビで生中継された。滅多見ることのないアンドレの指揮は貴重であり、ストラスブール管弦楽団(音楽監督グッシエル・バウワー)や、25本のトランペットで演奏したアイーダの「凱旋行進曲」よりもさらにアンドレの指揮が大きく見えた。主な参加者は、E.オービエ(元パリ・オペラ主席、ルエイユ・マルメゾン音楽院教授、ソリスト)、R.アンドレ(アンドレの弟、ニーム音楽院教授)、R.カロン(パリ・ギャルド主席)、T.カーンス(元国立リヨン管弦楽団、パリ・オペラ管弦楽団主席、現在ディジョン音楽院教授、ソリスト)、J.M.ガロ(パリ空軍バンド・フリューゲルホーン・スーパー・ソリスト)、J.ジャーマッソン(アヴィニオン音楽院教授)、D.ルロワ(アミアン音楽院教授)、J.P.ルロワ(オルレアン音楽院教授)、M.レキュリューズ(パリ警視庁音楽隊主席、パリ14区音楽院教授)、V.ロペツ(スペイン・ヴァレンシア音楽院教授)、H.ラッキエ(パリ警視庁音楽隊)、S.マゾー(パリ警視庁音楽隊主席)、S.メセネロ(メッツ交響楽団)、G.ミリエール(リュクサンブール放送交響楽団主席)、S.オルリック(パリ15区音楽院教授)、A.パヴァール(カンヌ音楽院院長)、C.ポーラン(ヴェルサイユ音楽院教授)、J.ポントー(アンジェー交響楽団)、J.M.リケブルグ(パリ警視庁音楽隊)、J.C.レラヴ(パリ警視庁音楽隊)、P.シュヴァイツアー(スイス・サンガルオペラ管弦楽団主席)M.スギキ(東京芸大助教授)、B.スーストロ(元フランス国立管弦楽団主席、元ブーローニュ音楽院教授、ソリスト、ゲブヴィレー国際管楽器コンクール監督、ナルボンヌ金管五重奏国際コンクール監督)G.トウーヴロン(元国立リヨン管弦楽団、現在パリ8区音楽院教授、パリ中央音楽院教授、ソリスト)、M.トワズー(パリ警視庁音楽隊)。
1966年アンドレは、恩師R.サバリッチの後任としてパリ国立高等音楽院の教授に任命されてから、1979年M.ラゴルス(元パリ管弦楽団主席)にその席を譲るまでの約13年間、アメリカ、日本、スペイン、スイス、ベルギーの外国人留学生を含めて多くのオーケストラ奏者やソリストを育てた。
アンドレの音楽を聴くと誰もが「アンドレのトランペットは特別だ」と口を揃えたものだ。今日もアンドレの演奏を聴ける機会に感謝する。
今年1997年10月15日から25日までの間、パリ市主催「第3回モーリス・アンドレ国際トランペットコンクール」の開催が予定されている。
〜ひとつの時代を築いた巨匠と音楽院〜
私が東京藝術大学に入学したのは1966年、アンドレがロジェー・デルモットの後任としてパリ国立高等音楽院の教授に就任したのと同じ年。その4年後の1970年、私はフランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に合格しました。M. アンドレは、1933年5月21日、フランス南部、セベンヌの近くにある鉱山の町、アレスに生まれました。決して豊かではなかった家庭を助けるために、14才から鉱山に入り、父親と一緒に炭鉱夫としての仕事をしました。父はアマチュアのトランペット吹きで、アンドレにトランペットを吹くことをすすめたのは、12才半ばの頃でした。アンドレは、ロシュベル炭鉱や、アレス吹奏楽団の一員として演奏を開始しましたが、この頃、同郷で、パリ国立高等音楽院出身のトランペット奏者バルテルミーに出会いました。バルテルミーは、アンドレの非凡な才能を見いだし、パリ国立高等音楽院に入学することを勧めた。1952年19才の時、パリ国立高等音楽院に入学し、レイモン・サバリッチに師事し、コルネット、トランペット共に名誉一等賞で卒業したのは、弱冠20才でした。この年の卒業試験会場には、アンドレの演奏を聴こうとする一般聴衆の長い列が続いたと伝えられています。1955年22歳の時、ジュネーブ国際コンクールで優勝、1963年(30歳)ミュンヘン国際コンクールで優勝し、全世界に彼の名が広がりました。
ソリストとして活動する前は、オーケストラ奏者としても活躍し、1953年から59年までラムルー管弦楽団、1962年から67年までパリ・オペラ・コミーク管弦楽団のそれぞれ首席奏者を務めました。「私はナイトクラブでもトランペットを吹きました。また映画音楽の録音もし、ピアフやトレネーら、シャンソン花形歌手の伴奏をしたこともあります。さまざまなジャンルの音楽に接することによって、トランペットの仕事本来の性質を学びました」。
私とアンドレとの出会いは、パリ国立高等音楽院の入学試験前、セルマー社のスタジオでした。当時の音楽院長、ガロワ・モンブラン氏に紹介してもらい、レッスンを受けられるよう手配していただきました。濃紺のジャージーを着て車から降りて来られた時の感動は、鮮明に覚えています。
「こんにちは。今日は何を吹いて聴かせてくれるのかな?」と問われ、演奏曲を答えると、アンドレは前奏のピアノの部分を歌いはじめました。トランペットを吹き始めると、「歌え、歌え、歌え!」、私が歌おうとしているのが伝わると、次は「息、息、息!」、続いて「筋肉、筋肉、筋肉!」と大きい声で私にアドヴァイスをしてくれました。このわずか三つの言葉が、その後の私のトランペット演奏の基本になりました。
パリ国立高等音楽院の入学試験当日は、試験場の入り口にアンドレが立っていて、受験者一人ひとりにコップの水を差し出し「これを飲みなさい」と面倒を見て下さいます。私は緊張のあまり、少ししか飲めなかったのですが、「全部飲みなさい」と言われて飲み干すと「よし行ってきなさい!」と背中をポンと叩いて送り出して下さるのです。
・・・後で知ったのですが、パリ国立高等音楽院は、入学試験も卒業試験も指導教官は採点せず、学外から招待された数名の試験官が採点することになっていました。アンドレは指導をした受験生の緊張を和らげるため、最善の環境を作っておられるだけでした。
一クラス12名は、朝9時に全員が集合し、一人ひとり丁寧に握手をして「元気?」など皆の健康状態を聞き、 また各自は近況を報告してからレッスンが始まります。天井が高く、心地よい良い響きのレッスン室で、全員が同じ曲を演奏し、それぞれへのアドヴァイスが次回のレッスンの参考になります。アンドレのクラスを見学に、旧ロシアの名手ドキスツァーさんと数名の学生、デンマークや日本の大学からの訪問もありました。
12名の学生達が切磋琢磨して学んだ2年後の6月、音楽院の中にあるホールで卒業試験がありました。試験は一般に公開されているので、私の妻と息子の淳一朗(当時1才3ヶ月)を連れて演奏を聴きに行っても良いか、と恐る恐る尋ねると、試験会場に子供を連れて入る事は考えられない、と思っていたのですが、快く承諾して下さり、アンドレの家族に対する心遣いに頭が下がる思いがしました。
〜古希のお祝い〜
フランスのアルカング城はスペイン国境に近い大西洋に面したバスク地方で、王侯貴族の保養地として栄えた小都市、ビアリッツから車で15分という場所に位置します。2003年5月24日、アンドレの70歳の誕生パーティーがここで催されました。午後7時のアンドレの入場にそなえ、ファンファーレの練習が6時少し前に始まり、7時前には100人ほどの客にシャンパンが配られ、ティエリー・カーンスが作曲したファンファーレを、私を含むギー・トゥーブロン、カーンスといった弟子たち12人ほどがグランドホール2階のバルコニーに並び、ミッシェル・ベッケ(トロンボーン奏者)の指揮で演奏しました。アンドレの親しい友人やマルセル・ラゴルス、アメリカからロジェー・ヴォアザン、兵役時代のバンド仲間、地域の名士達との昔話に花を咲かせ、今まで知らなかったアンドレの一面を垣間見せられました。ジャズピアニストで作曲家のミッシェル・ルグランは自家用機でビアリッツの飛行場まで来て、このパーティーではグランドピアノで演奏していました。午後9時頃、ようやくアペリティフ(食前酒)からディナーに移り、料理のフルコース。食事の間には金管アンサンブルが各テーブルを回り、皆を楽しませてくれました。日付も変わって午前1時半少し前、ファンファーレを吹いた弟子たちの「ハッピーバースデー」の演奏と招待客の手拍子で、宴も最高潮に。このパーティーの招待客は118人で、会場は娘のベアトリス(オーボエ奏者)が色々探して見つけ、弟のニコラと一緒に企画したと言うことです。私と妻はアンドレ夫妻のとなりのテーブルで「ミネオ夫妻は遠い日本からわざわざ来てくれたのが何より嬉しい」と、アンドレの挨拶の中で皆に紹介して下さり、参加して本当に良かったと思いました。この日はあまりにも楽しく、その日ホテルに帰ったのは午前4時になっていました。
翌日の25日は、アンドレの家族と、私達遠方からのお客達をアペリティフに招待。さらに26日は、ビアリッツの飛行場からパリまでアンドレ家族と同じ飛行機で、アンドレはパリ到着後すぐにテレビ放送のインタビュー。そして次の日の27日は、なんとパリのサン・ピエール・ドゥ・シャイヨ教会で弦楽合奏との演奏会があり、私も聴きに行きました。70歳という高齢を感じさせない素晴らしい演奏で聴衆を魅了しました。この日の演奏が私にとって最後となってしまいました。
昨年の3月11日の大震災の後、アンドレから私の携帯電話に連絡がありました。「日本はどうだ、家族と息子たちは大丈夫か、今住んでいる町までどれくらいの距離があるのか」と、地震と津波、原発事故の見舞の言葉に胸がいっぱいになりました。
毎年、年が明けるとアンドレに新年の挨拶の電話をするのですが、今年も2日の朝電話すると、奥さんのリリアンが電話に出て「モーリスは少し疲れているので、ちょっと待って」と言って、「モーリス、ミネオー・ジャポーン」と、電話口に呼んでくださいました。しばらく待っていると「ボンナンネ、サヴァー(新年おめでとう、元気かな)」とアンドレが電話に出てくれて「私は日本に何度も演奏に行ったし、日本が大好きだ!」「日本の音楽を愛する人達に元気で良い年になるよう伝えて下さい」と。私はいつも、アンドレが電話を切るまで受話器を耳に当てているので、受話器を置く前「リリアン、ミネオはいつも電話をかけてきてくれる」と話しているのが聞こえていました。
〜訃報〜
モーリス・アンドレが2月25日23時に亡くなられました。享年78才。2月26日、フランスの友人から知らせを受け、すぐに自宅に電話をしました。息子のニコラが電話に出て「葬儀は水曜日か木曜日、生まれ故郷のアレスになると思う、ついに来るときが来てしまった」と沈んだ声で話してくれました。私が藝大に入学した同じ年にパリ音楽院の教授に就任されたアンドレ。そして本当に偶然にも私が藝大を定年退職する今年、アンドレは亡くなってしまいました。私は退職したらゆっくり時間を取ってアンドレの誕生日を祝いにフランスへ行き、昔のことなど、トランペットについての話をたくさん聞かせてもらおうと思っていた矢先の悲しい知らせでした。本当に残念でなりません。少し前にはフランスの友人達と、80歳の誕生パーティーの話をしていたところでした。
2012年3月1日、生まれ故郷のアレスの教会でアンドレの葬儀が執り行われました。多くの関係者や教え子達がトランペットを持って集合し、全員でヴェルディ作曲オペラ『アイーダ』より「凱旋行進曲」を演奏し、フランスのテレビや新聞にも大きく取り上げられました。
また5月15日には、パリのサン・ロック教会で追悼コンサートが開催されました。先頭に立ったのは、ティエリー・カーンス(リヨン音楽院教授)、ベルナール・スーストロ(ペルピニアン音楽院教授)、ギー・トゥーブロン(パリ市立音楽院教授)達でした。短い準備期間であったにもかかわらず、多くのトランペット奏者が各地・各国から集まり、午後2時からの練習の後、4時からコンサートが始まり、ナカリヤコフのバッハ/G 線上のアリア、オービエや、スーストロのソロ、私もパリ音楽院の7名の旧友と弦楽アンサンブルと共に、日本の歌を演奏しました。途中、息子のニコラの挨拶によって感謝の言葉が述べられ、会場は生前のアンドレを偲ぶ人達で教会は満員でした。ロジェー・デルモット、ピエール・ポーラン、パリ管やオペラ劇場のオーケストラ奏者、ジャン・マリ・ガロら空軍音楽隊やパリ・ギャルド吹奏楽団のトランペット隊、パリ音楽院の学生達等のラッパ吹きが集まり、このニュースはインターネットを通して紹介され、アメリカのI.T.G.会報によっても紹介されました。
世界中で愛され続けたアンドレの演奏はもう聴けませんが、トランペットを愛する人々の心の中に 響き続けていることでしょう。
心よりご冥福をお祈りします。
日本トランペット協会理事長
東京藝術大学名誉教授
杉 木 峯 夫
東京藝術大学名誉教授
杉 木 峯 夫
モーリスアンドレ追悼演奏会(→ITGの記事はこちら)
モーリスアンドレ追悼演奏会(2012年5月15日 パリ:サンロック教会)
お知らせ
モーリス・アンドレのCD 
演奏者:
Maurice Andre
Bernard Gabel
Paul Hongne
Maxence Larrieu
Pierre Pierlot
Schweitzer, Pierre
Bernard Soustrot
杉木峯夫
Guy Touvron 他
Maurice Andre
Bernard Gabel
Paul Hongne
Maxence Larrieu
Pierre Pierlot
Schweitzer, Pierre
Bernard Soustrot
杉木峯夫
Guy Touvron 他
発売日:2009年08月25日
¥2,090

東京藝術大学トランペット科専攻生による中国公演
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